夕風桜香楼

歴史ネタ中心の雑記帳です。
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【記事目録】征西戦記考 ~西南戦争の実相~

2030年01月10日 10時52分32秒 | 征西戦記考
  
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 西南戦役(西南戦争)の実相についての解説記事である「征西戦記考」シリーズは、当ブログのいわばメインコンテンツです。
 近年、記事の種類も増えてきたことから、ブログトップにまとめページを新設・固定することにしました。
 西南戦役にご興味をお持ちの方に、少しでもお役立ていただければ幸いです。


【コラムもの】
 比較的読みやすい内容となるようにまとめた解説コラムです。トリビア集的な側面もありますので、まずはこちらからどうぞ。

官軍から見た西南戦争
 西南戦役の経過を、官軍視点で概観するものです。基本事項の予習orおさらいに。

西南戦争・警視隊の九州派遣
 「抜刀隊」の活躍で知られる警視諸隊の活動について、俯瞰的に解説しています。

征討発端と山県有朋 ~NHKの西南戦争特番について~
 戦役勃発時の政府初動に関して、一般に誤解されている事柄の実相を論証・解説したものです。

西南戦争期の兵営生活
 西南戦役頃の鎮台兵の意外な生活実態について、経験者の述懐を紹介しています。
 
西南戦争 生き残った者たちの証言【1】【2】【3】
 『西南之役懲役人質問』という史料に基づき、薩軍の生き残りの証言を紹介しています(全3回)。

西南戦争 両軍舌戦
 戦闘の合間に発生した両軍の「舌戦」について、当時の記録を引用し紹介しています。

西南戦争 数値から見る警視隊戦記 
 西南戦役における警視隊の戦いについて、戦死者名簿をもとに実証分析しています。

西郷はいずこ 鹿児島暴発をめぐる情報戦【1】【2】【3】
 戦役勃発時、政府はいつ、どのように西郷の関与を断定したのか? 史料をもとに、その実相を探ります(全3回)。

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【1】【2】【3】【4】【5】 《新着記事》
 西南戦役の発端は、言葉の聞き間違いだった⁉ 有名な逸話の実相に迫ります。(全5回予定)


【論考もの】
 ややカタい内容の論考です。より深く知りたい方にオススメしますが、西南戦役に関する一定の予備知識が必要かもしれません。

西南戦争における旅団編成の複雑化 
 征討旅団の編成が複雑化した経緯と背景について考察したものです。

西南戦争勃発時の政府機構
 西南戦役頃の政府の機構や人事についてのおさらいです。

西南戦争・政府初動の実相
 戦役勃発時における政府の初動措置について、俗説とはやや異なる実態を解明しようとこころみたものです。

西南戦争・征討体制の構築
 戦役勃発直後の征討体制の構築過程と、その特徴について考察したものです。



 今後も新たに記事を追加するつど、更新してまいりたいと思います。



 

令和六年正月

2024年01月16日 00時38分04秒 | ギャラリー
  


 新年ということで描初め。明治10年台における略衣姿の将校となります。

 明治初期、陸軍将兵の挙措は後年のそれとは異なっていたようで、特にフランス式の影響が濃かったことが知られております。ただ、写真や図画の史料が乏しいため、その実像は必ずしも判然としません。
 明治6年制定「陸軍敬礼式」において、将校の敬礼は「帽の紐を頤に掛るときは右手を挙て帽に及ぼす もし紐なきときは帽を脱す」とのみ規定。しかし明治16年には、これが「凡そ軍人の敬礼は挙手注目とす 其法右手を挙て食指と中指を帽の前庇の右側に当て掌を外面に向け肘を肩に斉しくし敬すべき人に注目す」と改正されます。元来下士卒のみの動作であった挙手敬礼が、将校にも適用された形です。脱帽のみというシンプルな敬礼は、実務的にはほとんど運用されていなかったのかもしれません。
 興味深いのは、掌(てのひら)の向きです。フランス式の挙手敬礼は掌を真正面に見せる動作(ドゴールの写真なんかが有名ですね)で知られており、後年の帝国陸海軍や現代の自衛隊・警察の礼式で見られるような、掌を下に向ける動作とは異なります。この点、先述の明治16年の「陸軍敬礼式」では純フランス式を彷彿させる「掌を外面に向け」という記載がありますが、その後の明治20年に改正制定された「陸軍礼式」においては、該当箇所の表現が「掌をやや外面に向け」と修正されています。つまり、明治初期の陸軍将兵の挙手敬礼はフランス式の色彩が強いタイプだったものの、明治20年ころに変更され、われわれのイメージする形に近づいた…とみることができるのです。
 前置きが長くなってしまいましたが、今回の絵はそんな旧式の挙手敬礼をイメージしてみました。とはいえ、礼式法令が短期間で改正されている事実を見るかぎり、そもそも純フランス式の挙手敬礼はそれほど真摯に受容されていなかったのではないか…という推論に基づき、どちらかというと後年のスタイルに近づけた折衷的な塩梅としています。
 肋骨服は明治初期によく見られるタイプ。襟や紐飾の形状が後年とやや異なっているほか、襟元には黒色の下襟(クラバット)を巻きます。またこの時代は、帽子を浅くかぶるのが流行していました。

 残念ながら諸手で賀すことがむずかしい年明けとなってしまいましたが、本年もよろしくお願いいたします。

  

最近の絵など

2023年12月31日 00時58分26秒 | ギャラリー
 
 年の瀬ということで、下半期に描いた絵のまとめです。





『明治初年の証明写真』
 2023.11.25.

【高画質版&差分】(pixiv)

 明治10年前後の将校略衣。実際の古写真をベースに作画しつつ、当時の鶏卵紙ブロマイドのイメージで。
 明治初年に多い折襟タイプの肋骨服。紐飾のデザインは多種多彩ですが、これはきわめてシンプルな部類で、肋骨部分が上から順番に短くなっていきます。両側の紐飾は、後年のそれより傾斜のある配置。懐中時計の紐(または鎖)は、肋骨部分に通して留めている着用例が多い印象です。





『国防国家という陥穽』
 2023.12.23

【高画質版&差分】(pixiv)

 時短画法勉強の習作として、過去絵のリテイクを。
 以前は参本幕僚にしていましたが、今回は陸軍省軍務局員です。軍服に青年将校文化を残しつつも、陸大を恩賜卒業し欧州駐在を控えた気鋭の統制派系若手将校(昭和10年頃)をイメージしてみました。





『落日のワーテルロー』
 2023.12.29.

【高画質版&差分】(pixiv)

 リドリー・スコットの『ナポレオン』をようやく観てきました。歴史ファンの間で評判が芳しくないのも確かに分かる内容でしたが、巨匠の老練な腕前で徹頭徹尾”映画的に”再構築されたナポレオンの物語は、やはり見ごたえ抜群。不思議な高揚感を与えてくれる、楽しい作品だったと思います。
 さて、そんなわけでナポレオニックが描きたくなり、鑑賞記念にさっと仕上げました。画題はいろいろ検討しましたが、結局ワーテルローのナポレオンをイメージ。同人は壮麗華美な将官制服よりも近衛兵のシンプルな軍服を好んだそうで、こちらは近衛猟騎兵連隊長の軍服となります。名作映画『ワーテルロー』のナポレオンも、会戦当日はこれを着ていましたね。
 細部については、各種肖像画や海外サイトの情報を参考にしてみました。いかんせんこの界隈は門外漢なのでいちから調べる羽目になり、それなりに苦労しましたが、結果としては楽しかったですね。



 対AI戦と生産性のバランスを追求し、画法の改善に挑戦した一年でした。
 来年も引き続き暗中模索となりますが、引き続きよろしくお願いいたします。

  

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【5】総括

2023年09月19日 21時36分36秒 | 征西戦記考
 
 最終回ということで、これまで紹介してきた事実をあらためて整理し、勘違い説が流布するに至った経緯を再確認したいと思います。

 明治10年1月末、鹿児島において火薬庫襲撃事件が発生。急報を受けた政府は、川村純義(海軍大輔)と林友幸(内務少輔)を軍艦で鹿児島に急派します。現地到着後、直ちに大山綱良(鹿児島県令)から事情を聴取した川村・林でしたが、その際に「川路利良(大警視)が鹿児島に放った密偵による、西郷隆盛刺殺計画が発覚した」という、衝撃的な事実を聞かされます。
 この時点では大山も川村・林も、あくまで「刺し殺す」の意味で「シサツ」という言葉を使っており、コミュニケーション上の勘違いや誤解は生じていませんでした。事実、九州臨時裁判所における大山の取調べ記録(『鹿児島一件書類』)や後年の川村の述懐(『川村純義追懐談』)などの史資料を見ても、「シサツ」という言葉をめぐって特段の齟齬が生じた形跡はありません。
 また、私学校党が作成した密偵の口供書には、西郷を「刺殺」「暗殺」して私学校党幹部をも「みなごろし」にするといった文言が、明確に記載されていました(『丁丑擾乱記』)。私学校党は、はじめから密偵たちが西郷暗殺を企んでいるという事前情報を踏まえて行動していたため、そもそも「視察」を「刺殺」と勘違いする余地などなかったのです。

 さて、大山から聴取後、直ちに鹿児島を離脱した川村らは、取り急ぎ政府に状況報告の電報を打ちました。問題となったのは、その中にあった次の一節です。

「サイカウタイシヤウヲシサツスルコトヲ」

 川村らは深く考えずに「刺し殺す」意味で「シサツ」を使用したのでしょう。しかし、この表現は非常に紛らわしく、問題のあるものでした。実際、ある文書では当該箇所が「西郷大将を刺殺することを」と清書された一方、別の文書では「西郷大将を視察することを」と清書されるなど、政府内で少なからず混乱を招いていたのです(『鹿児島征討電報録』)。

 そもそも政府の面々からすれば、「西郷刺殺計画」じたいが寝耳に水の話です。なぜ鹿児島で突如そんな話が噴きあがったのか? 政府に届く正確な情報がごく限られている状況下、彼らは腑に落ちる答えを探し求めました。そんななか、岩倉具視(右大臣)はひらめいたわけです。

「シサツ……、もしや、川路の密偵が『視察』と自白したのを、私学校党が『刺殺』と勘違いしたのではないか!?」

 もしかすると、岩倉から追及された川路が「私は部下に『視察』は命じたが、『刺殺』は命じておりません!」などと抗弁したのかもしれません。いずれにせよ、現地鹿児島では単純に使われていた「刺殺」という言葉が、川村電報で「シサツ」と伝達されたために、重要キーワードに化けてしまったのです。
 つまり、言葉をめぐる勘違いは鹿児島でなく、政府の中で生じていた。……これが、シサツ勘違い説のカラクリだったということになります。

 このようにシサツ勘違い説は、元をたどれば岩倉の仮説=想像に過ぎません。しかし厄介なことに、

 ●「シサツという言葉を鹿児島人が勘違いしたのではないか?」と主張する岩倉具視の電報は実在する(『鹿児島征討電報録』)
 ●アーネスト・サトウら同時代人の述懐にも、シサツ勘違い説に関する記述がある(『遠い崖』)
 ●密偵団は「西郷」=「坊主」といった暗号を使っていたらしい記録がある(『林友幸西南之役出張日記』)

など、それを構成する断片的な要素は、いずれも史料的根拠のある事実なのです。もし構成要素の全てが真偽不明の憶測・噂話であったのであれば、シサツ勘違い説が現代まで語り継がれることはなかったでしょう。
 要するに、シサツ勘違い説は「ウソみたいな話」でありながら、一定の説得力を備えていたのです。

 英国人サトウの日記からは、岩倉が当時からシサツ勘違い説を各所で吹聴していた事実が読み解けます。こういった動きもあってか、シサツ勘違い説はいわば「政府の公式見解」として、世間に流布・定着することになったと考えられます。山県有朋(陸軍大輔)が後年「なるほど視察を刺殺と読み誤るのは、無理はなかろう」と語っている(『西南記伝』)のは、シサツ勘違い説が政府内で支持されたことの証左であったといえるでしょう。

 鹿児島暴発の報が舞い込んだ当初、政府の面々は西郷の関与を信じませんでした。情報の不足もありますが、同時に「西郷が無事であってほしい」という実に人間的な感情(=願望)が、彼らの認知を歪めたともいえます。しかし結果としてそれは、初動措置の遅延と早期収拾失敗という、最悪の事態を招くこととになりました(過去記事参照)。
 シサツ勘違い説にも、これと同根のセンチメンタリズムが見え隠れします。もし当時、政府の面々に「西郷のいる鹿児島が暴発するはずがない(=何か別の真実があるに違いない)」という先入観がなければ、あんな荒唐無稽な珍説が現代までまかり通ることもなかったのではないでしょうか。
 断片的な事実が人々に都合よく解釈され、結果として巨大な虚構が組みあがっていく……シサツ勘違い説をめぐる謎解きは、情報が氾濫する現代においても、多くの示唆を与えてくれるような気がします。

(了)

 

西郷をシサツせよ⁉ 希代の“勘違い”の実相【4】浮かび上がる断片的事実

2023年09月11日 19時33分47秒 | 征西戦記考
 
 さて前回、シサツ勘違い説が成立し得ない理由を提示しました。
 では、岩倉具視や山県有朋らの逸話は何だったのか? ……というわけで、今回はこれらの人物を含め、世間がシサツ勘違い説を信じるに至った原因について、考察を加えてみたいと思います。
 実のところ、筆者はこのシサツ勘違い説の元ネタについて、ある程度目星がついております。


①川村・林による報告電報

 「シサツ」という文言の、そもそもの出所はどこか。……同時代史料を見る限り、それは海軍中将・川村純義と内務少輔・林友幸が連名で打った、1本の電報であると考えられます。
 西南戦役のきっかけの1つである火薬庫襲撃事件の発生直後、川村・林は、政府の使者として鹿児島に派遣されました。両名は軍艦「高雄丸」で海路鹿児島へ急行し、大山綱良県令から事情を聴取するなどしましたが、武装した私学校暴徒が艦の周囲で威嚇してきたため、即日反転離脱しています。(このあたりの経緯は、過去記事も参照)
 当時、艦載の無線電信などはもちろん存在しませんので、川村らは帰路に立ち寄った尾道の電信局から、鹿児島の状況を政府に速報しました(当時の政府中枢は、明治帝の関西行幸に伴って京阪にありました)。政府の面々はおそらく、この電報で初めて西郷暗殺疑惑なるものの存在を認知したと考えられます。

 薩摩へ去る九日朝着船す。(鹿児島暴徒は)兵器を以て我が高雄丸に乗り入らんとす。故に上陸する能わず、県令は漸く高雄丸に会す。とても鎮定成り難し。最早昨今は発兵するの勢い、入港の船をことごとく止む。船の薩摩行を留むべし。肥後鎮台へも報告す。兵員わけて御注意あるべし。
 其の名とする所、西郷大将を刺殺することを大警視より中原某等へ申し含めしと云う。中原其の他三十名捕縛せしと県令より聞く。
 風波のため今日午前八時二十分当港へ着。

(『鹿児島征討電報録』)

 川村らは、「私学校党の挙兵の大義名分は、西郷大将を『刺殺』することを川路大警視が中原らに指示したことにある」と報告しています。
 しかしこの電報文は、もともとカタカナ表記だった原文が、記録用として漢字仮名交じり文章へ清書されたものです。すなわち、本来は「サイカウタイシヤウヲシサツスルコトヲ」といったカナのみの原文であったはずなのです(なお、電報原文自体の史料は発見に至らず)。
 それを踏まえ、あらためて原文ベースで考えてみると、「シサツ」という文言は「刺殺」なのか「視察」なのか、極めて曖昧です。電報を受信・清書した政府の職員も、おそらく判断がつきかねたのではないでしょうか。というのも、複数ある電報録のうちの別の一冊では、同じ電報文が次のように記載されているのです。

 其の名とする所、西郷大将を視察することを大警視より中原某等へ申し含めしと云う。中原其の他三十名捕縛せしと県令より聞く。
(『鹿児島征討電報録』)

 つまり、当時の政府内において、「シサツ」という言葉をめぐる誤解・勘違いが現に発生していたわけです。
 これは率直に言って、川村らが電報で安易に「シサツ」という曖昧な言葉を使ったことに、全ての原因があります。
 鹿児島視察の際、川村らは大山県令から対面で説明を受け、西郷暗殺問題の概要を明確に認識しています(『川村純義追懐談』『鹿児島一件書類』等)。大山がその場で「シサツ」という言葉をどの程度使ったかはわかりませんが、少なくとも川村らがそれを聞いて「視察」と「刺殺」を取り違えた形跡はありません。ゆえに、川村らが電報で使った「シサツ」が「刺殺」であることは、間違いないと考えられます。
 しかし「シサツ」という言葉のチョイスは、電報文を作る感覚に著しく欠けているといわざるを得ません。電報という媒体である以上、例えば「アンサツ」「サシコロス」など、読み手が明確に理解できる表現を使うべきなのです。類似の齟齬は現代のビジネス・コミュニケーションでも大いに起こり得るものですので、考えさせられるものがありますね……。
 いずれにせよ、川村電報の「シサツ」が政府内で一定の混乱を招いていたことは、史料でも確認できる事実というわけです。


②密偵団の暗号(隠語)

 次に紹介するのは、「ボウズヲシサツセヨ」電報の元ネタと考えられる事実です。
 実のところ、落合先生が著書で取りあげていた西郷=坊主という暗号は、実際に存在していたらしいことが分かっています。すなわち、鹿児島の大山県令が、密偵から押収した暗号メモを西郷暗殺計画の証拠として報告しているのです。

 暗号
  一 虎とは 電信機
  一 西の窪とは 大久保のこと
  一 親方とは 政府のこと
  一 坊主とは 西郷のこと
  一 警助とは 警視庁
  一 吉田とは 桐野のこと
  一 川原とは 三条のこと
  一 髭とは 別府のこと
  一 於岩とは 岩倉のこと
  一 一向宗とは 私学校のこと
  一 川口屋とは 川路のこと
  一 天狗とは 銃砲のこと
  一 藤細工屋とは 安藤のこと
  一 御薬とは 弾薬のこと
  一 人力車とは 巡査のこと
  一 馬車とは 兵隊のこと
  一 クジラとは 軍艦のこと
  一 乞食とは 探索者のこと (略)

(『林友幸西南之役出張日記』)

 暗号よりは隠語というべきものではありますが、西郷隆盛、桐野利秋、別府晋介など私学校党関係者に加え、大久保利通、岩倉具視、三条実美(太政大臣)、川路利良、安藤則命(警視局中警視)といった政府要人の名前、さらには巡査、銃砲、弾薬、軍艦といったキーワードが列挙されています。また、大山のこの報告書には、西郷=「煙草」、桐野=「カスリ」、私学校=「ミカン」といった、別バージョンの暗号も併録されています。
 中原ら密偵団がこれらの暗号を使っていたと考えることは、それほど不自然ではありません。彼らは敵地で危険な極秘任務を遂行しているわけですし、例えば現在の警察で「犯人」=「ホシ」といった類の隠語が使われていることもよく知られています。
 つまり、「ボウズヲシサツセヨ」という電報の存在は怪しいものの、少なくとも中原ら密偵が西郷を「坊主」という暗号(隠語)で呼称していたらしいことについては、ある程度の信憑性が認められるのです。


③岩倉具視の推測

 3つめに紹介するのは、東京の岩倉具視と京阪の川村純義の間で交わされた往復電報の記録です。そして筆者は、これこそが勘違い説の原因・経緯を解き明かす最重要史料である……とにらんでおります。
 電報は2本あります。1本めは、鹿児島視察から戻ってきた川村が2月16日、岩倉に対して送った電報です。重要な内容なので、原文と現代語訳をともに紹介します。

 先日御届け致し候「川路大警視の指令を以て西郷大将を視察する」云々は容易ならざる事件に付き真偽不分明、右等ノ事万々あるまじくとは存ずれども今般御尋問として西郷上京致すべくとの場如何にも順序相立たず、上京猶予致すべき旨大山県令を以て申込め置き候に付き、全く同県人の偽策に非ずや。川路御取糺し何分の儀承知致したく候。
《先日お届けした「川路大警視の指令をもって西郷大将を刺殺する」云々は容易ならざる事件で、真偽は明らかでありません。そのようなことは万が一にもあり得ないとは思いますが、今般政府に尋問ありとして西郷が上京するというのは順序が立たないので、上京を思いとどまるべき旨、大山県令を通じて申し伝えておきました。(西郷刺殺計画というのは)全くもって鹿児島人たちによる虚言ではないでしょうか。川路を問いただし、詳細を確認したいところです。》
(『鹿児島征討電報録』)

 電報文は、「シサツ」の箇所が全て「視察」で清書されています。しかし、ただの視察命令が「容易ならざる事件」「万が一にもあり得ない」というのは文脈上考えにくいため、川村はやはり「刺殺」の意味でこの言葉を使っているとみるべきです(そのため、現代語訳では修正してあります)。ここでも現に誤解が発生しているわけで、電報で安易に「シサツ」という言葉を用いることの問題点があらためてお分かりいただけると思います。
 いずれにせよ、川村はこの電報において、刺殺計画の首謀者とされている川路利良への事実確認が必要だ、との旨述べています。(川村はこのとき京阪にいますが、岩倉と川路は東京に残っていました。)
 川村から電報を受けた岩倉は、同じ2月16日付でさっそく返信をしています。

 電報落手せり。川路大警視の指令を以て西郷大将シサツ云々容易ならざる事件に付き真偽分明に承知ありたき旨、早速川路へ尋問せし処、「警察の儀は職掌故固よりたるべき様なし、若し暗殺等の取違いに候わば思い寄らざる訛伝」と答え候。
 我考うるに「シサツ」則ち「サシコロス」の字と誤認候やと存じ候。来示の通り万々之れなき事にて全く偽策と存じ候

《電報を受領しました。「川路大警視の指令で西郷大将をシサツ」云々は容易ならざる事件につき真偽を承知したい旨、さっそく川路に確認したところ、「警察の職務上、そのようなことがあるはずはなく、もし暗殺などと勘違いが生じたなら思いもよらない誤解である」と答えました。私が考えるに、鹿児島県人は「シサツ」 を「刺し殺す」意味と誤認したのではないかと思います。お考えのとおり、万が一にもあり得ないことであり、全くの虚言と存じます。》
(『鹿児島征討電報録』)

 いかがでしょうか? この電報において突如、岩倉から「私学校党は『シサツ』を『刺殺』と勘違いしたのではないか」というアイデアが飛び出すのです。
 往復電報の文面からは、突如発覚した西郷刺殺陰謀なるものに対する川村・岩倉らの狼狽ぶりが、ありありと伝わってきます。なぜそんな事態が起きたのか、彼らは見当がつかず、何か腑に落ちる「答え」を探し求めた。そして、鋭敏な頭脳をもつ岩倉はピンと来たわけです……「分かった!この『シサツ』が全ての原因だ!」と。もしかすると、川村からの電報文を見た川路が「私は部下に『視察』は命じたが、『刺殺』は命じておりません!」などと主張し、それにヒントを得たのかもしれません。
 要するに、実相は次のとおりだったということです。

× 私学校党が「シサツ」を「刺殺」と勘違いした
〇『私学校党が「シサツ」を「刺殺」と勘違いした』と、岩倉具視が勘違いした


 岩倉は、とにかく本件のキーパーソンというべき存在です。
 第2回を思い出してください。アーネスト・サトウがシサツ勘違い説を聞かされた相手は……岩倉でした。そう考えると、サトウの日記はむしろ「岩倉によってシサツ勘違い説が創出・流布されたことの傍証」としての意味あいが強くなってきます。

 いかがだったでしょうか。シサツ勘違い説は、これらの断片的な事実が予断・推測を媒介に結合し、虚構としての全体像が形成されていった……と考えられるわけです。
 次回(最終回)では、これまで紹介してきた情報を整理し、勘違い説が生まれた経緯をあらためて再構築してみたいと思います。

(【5】へつづく)